下記の通り。

思ったことを無責任に時々書いたり書かなかったり

友達がブロガー

近しい人がブログを始めたので何かできることはないかなと思って自分も始めてみたブログ。過去の経験から、近しい人とのブログコメントやり取りは非常に面倒なことになる要素があるので自分はその人に秘密というより黙ってはじめて見ることにした。

でも、読者って大事だねぇ。全然続ける気が起きない。読む人いないと。

さて、他はどうしているのかと考えを巡らせたらああそういえばと思い出したことがあるのでかいとこうかなぁ。

私、好きなエッセイストがいるのだけど(エッセイストなのかどうかはわからない。ともかく面白いブログ書いてる人)好きすぎてその人に関連したというより、その人と付き合いのある人の漫画とか文章とかを見たりしててね。でもそれがちっとも魅力的じゃない。多いんだなこういうことが。

うん、主題から外れたようみえるけどUピンカーブで戻します。こうご期待。

そもそもどうやってそういう情報を得たかといえばその人のtwitter。フォローとかお気に入りとか。うん。ほぼtwitterのせいなんだよ。

こんなことしてるのは自分だけなのかなと思って知り合いのtwitterをこっそり見ると結構いるんだよね。好きな人の系統でいつの間にか好きになってフォローしちゃってる人。幸い自分はtwitterアカウントというアイデンティティ持ってないから、人の見て感じるだけだけど発信している自覚なく何となくやっている人はもろに洗脳レベルになるほどにまである系統にだけ固執したラインナップになっていたりするフォローリスト。

で指摘するとその人がこういうことがある。

「一貫して好きなものしかフォローしてないよ。自分の考えだから」

 

自分的行動分析で恐縮なんだけど、気が付いてるだろうかこういう人が自分がどういう経緯でそれをしているか。

簡単にいうと浅いところでリツイートにやられてるだけってこと。

広告も宗教もそうなんだけど、似通ったことをうまく別の人の口からいうことって催眠みたいに自分の無意識にアクセスしてくるのですよ。

これは誰でもひっかかる。

「これかわいい」をその人の彼氏に言わせる。

「近所でなにがしさんがかわいいっていってた」を親に言わせる。

 

「かわいいかも!!!」

なんてわかりやすい。この程度なら「私ミーハーだしね」で済むしそう見られている人は安全圏にいる。

女の人ならわかるだろうが「あたし彼氏できると彼氏の言いなりになっちゃって服も変わっちゃうんだー」って言ってるやつはいい。

「は?もともとこれすきだったし」ってやつがやばいこと。

 

要するに怖いのは「そんなもの自分には通用しない」と思ってしまっている人。

病認識のない病人は自分も他人も傷つける。ときにね。

自分にもあることだけど自分を攻撃してくる最大の敵は自分で、反省や過去は時に命を奪いに来る。

「そんなもの通用しない」と「自分」を過信しているせいで些細な自分の変化に気が付かない。この「そんなもの通用しない」人の周囲に友人がいなければどんどんドツボにはまっていくと思うのだよね。もうやばいくらい頭の中が一系統になった状態で気が付いたらとんでもないことになってたっていう事例は多くある。過去にも現在にもある。

私が、趣味でオウム真理教とか海外の集団自殺についての記事を読むとでてくる「はまってしまうエリート」の感じがそう。あと「あさま山荘」ね。

よくどうしてエリートがこんなことになるのかというけど、「自己への過信」というと答えると即「なんだそれ」といわれる。あれなんなんだろう。定型句ですかね。。。

 

これ教訓でもなんでもない。数式にでもしてみようかしらというくらい明らかに死角があるのだけど過去の経験がそれを邪魔してみれなかったりする。

 

話を戻してtwittter顧みればわかるけど、フォローリストが他人に見えることから忠誠心を目に見える形に表すことになったりもしている。ヒエラルキーを作っているのだよ。。。

それが拍車をかけるんだよね。「ファンとか言ってるけどフォローしてないじゃん」の引き金に「フォローありがとう」がある。フォローありがとうっていうコメントみて私は内心「何言ってんだこいつ」と思ったりしている。

「どうせフォロワー少ないし」とかも、ばかじゃねーのこいつと商用でなければ思っている。さておき

カギ付きになんかしたらもっと危ない。完全宗教。

お金払ってないしということなかれ、実は媒介物がないほうが心の浸食って恐ろしい。おぞましい。おどろおどろしい。

さて、発信している自覚のある人はフォロワーにまで気を遣ったりする。見えているからどう見られているかをデザインしていたりする。ライターとか文筆業とかはもちろんアイドルだのなんだのもできる人はやっている。

だからフォローしている中には当然「面白くない人」いるんだと思う。

嫌いな人や表面的に仲の良い人もいるのだと思う。

アクセサリーだもん。

自分の友達のtwitterを何件かみているが、発信している自覚がない人に多く見られるこの洗脳メカニズムにちょっとした狂気を感じたりする。

人はみんなうなずいてくれる人がほしい。好きでいてくれる人で回りを埋めたい。

趣味でやっているのだからいいじゃないかと思ってしまいがちだ。

しかし少しずつ浸食してくるその狂気に気が付きコントロールできている人は非常に少ない。たぶんプロとアマの線引きの難しい業界ではコントロールしきれない人でも生業としている表現者はいるんじゃないかな。お金を稼げている人で線引きすればそんなん関係ないし。

昨今、炎上で閉鎖するアカウントが多いと聞くが閉鎖だけで済めばよいがと考えを巡らせることがありこの考えをぐるぐると終わりなく巡らせるに至った。

人はとても弱い。

結局、読者は自分だけでよいなぁと思いつつリアルでは自己反省的な部分も含めちゃんとにブログだ言っていることを時々話し、顔を見て反応を聞くのがベストな気がしています。

 じゃあなんでブログに書くの?っていわれれば、時々口ずさむ鼻歌と同じで「ああ、きぶんよさそうだなぁ」っていう薄いコミットを一応しとこかな程度のことです。